• 2016
  • 02/04
  • Thu

日本の暦

全文長いです。必要な情報だけをご覧ください。

二十四節気


■二十四節気 にじゅうしせっき

暦は中国から伝わったとされていますが、当時は太陰太陽暦でした。太陽の動きと月の動きを基に季節のズレが起きないように作られたこの暦は、6世紀に伝わって以来、実に千年以上も使われてきました。その間、貞享暦、宝暦、寛政、天保など改暦を経て、現在の旧暦があります。現在日本の旧暦は太陰太陽暦である天保暦が使われています。
私たちが普段使っている新暦は明治6年改暦された太陽暦であり、別の名をグレゴリオ暦とも言っています。太陽暦では地球が太陽の周りを一周する365.25日を1年としました。この1年を12進法の12で分割し、端数の時間は4年に1度の閏年で調整しました。
季節は太陽と地球の位置関係によって生まれます。そこで生まれたのが二十四節気と呼ばれる暦でした。太陽の高さが最も低い冬至、もっとも高い夏至、それの中間である春分と秋分の「二至二分」を基準に春夏秋冬に分けられました。さらにそれらの始まりである立春、立夏、立秋、立冬の「四立」も大きな区切りにしたのです。これらを合わせて「八節」と呼び、その間を各3つずつ、つまり1年を24等分したのが二十四節気となります。
二十四節気はそれぞれ約15日間で季節感のある名前が付けられました。「雨水」「啓蟄」「清明」など風情がありますよね。
各季節の二十四節気はこちらをご覧ください。


七十二候IMG


■七十二候 しちじゅうにこう

古代中国では二十四節気をさらにそれぞれ3つに分け、1年を72等分した七十二侯を作りました。七十二侯はそれぞれが約5日間で、二十四節気よりさらに具体的に動植物の行動や気象の変化を短文化し、季節の移ろいを表したのです。これが日本にとりいれられたのですが、日本と中国では風土が違い、あまりに具体的すぎて日本の気候と合いませんでした。そこで日本は独自の七十二侯に変更したのです。それが江戸時代、貞享暦を編集した渋川春海によって日本の風土に合うように改訂された七十二侯なのです。
旧暦では1年の始まりは立春と考えられていました。中国の陰陽五行思想では、すべての物事は反対と反映を繰り返すと考えられていました。立春以降は徐々に気温が上昇し始める寒さのピークこそ、春の始まりだと考えられていたのです。
中国や台湾では立春を「春節」と呼び、新しい年の始まりとして新年よりも盛大に祝う習慣があります。日本の中華街では爆竹を鳴らし、賑やかに祝うところもあります。
美しい四季が巡る日本。二十四節気、七十二侯と私たちの先祖が大切に残してくれた暦を意識し、季節に寄り添って暮らしていきたいものですね。
各季節の七十二候はこちらをご覧ください。


五節句


■五節句 ごせっく

江戸幕府がこれらの五節句を式日と定めたのは、従来の宮廷の伝統的節会を踏襲する意味がありました。
そのうえで武士社会と密接な関係がある農村地帯の民俗的な節日を受容し、これに暦の中で奇数の重なる日を取り出し、季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うという、中国式の解釈を施して形成されたと考えられています。
宮廷では邪気を祓う宴会が催され、そこで「節句」といわれるようになったようです。


人日の節句 じんじつのせっく    1月7日

1624七草粥古来の中国では、正月のそれぞれの日に動物を当てはめて占いを行い、該当する動物を殺さない風習がありました。1日が鶏、2日は狗(犬)、3日は羊、4日は猪、5日は牛、6日は馬、そして7日は人でした。人日とは、文字通り「人の日」であったのです。
このため、7日の人の日には邪気を祓おうと七草の入った粥を食べ、一年の無事を祈ったことから「人日の節句には七草粥を食べる」と言い伝えられているようです。
春の七草である芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、はこべら、仏座(ほとけのざ)、菘(すずな)、須々代(すずしろ)。その若菜をまな板に乗せ、七草囃子を唄いながら、すりこ木や包丁でたたいて七草粥として食べていました。こうすることで更に七草の力を引出し、正月のご馳走で疲れた胃腸をいたわる効果があったのです。
詳しくは<2015年1月11日「蜩ノ記のロケ地になった南部曲り家」>をご覧ください。


上巳の節句 じょうしのせっく     3月3日

1624上巳の節句「上巳」は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日でありました。
旧暦3月3日は桃の花が咲く季節で、桃には邪気を払うという魔除けの信仰があったところから桃の節句とも呼ばれていました。平安時代、貴族の子女が健康と厄除けを願ったのが始まりとされています。江戸時代になると庶民の人形遊びと節句が結びつき、紙製の形代(かたしろ)に穢れを移して川や海に流し、災忌を祓っていたのです。流し雛はその風習を受け継いだものです。
古代中国には、3月の初めの巳の日を悪日として、川辺に出て不浄を除くため水で祓(はらい)を行うという風習がありました。
その時代の「徐肇」という人に女の三つ子が生まれましたが、三日後に3人とも死亡してしまいました。これはきっと何かのたたりだと、水浴をして忌み汚れを流し、禊をおこないました。
この日がちょうど初の巳の日であったのだそうで、これが上巳の祓(はらい)の行事が生まれた始まりと言われています。
日本にも古来より伝わっていた形代を流し災厄を祓うという風習と合体し、「上巳の節句」となったということです。
詳しくは<2012年3月1日「3月3日はひな祭り、耳の日、曲水宴」>をご覧ください。


端午の節句 たんごのせっく     5月5日

1624端午の節句この日は端午の節句であると同時に、子どもの日でもあります。「端午」の「端」は「はじまり」、「午」は「うまの日」であり、つまり月の初めの午(うま)の日のことです。端午の節句は別名菖蒲(しょうぶ)の節句ともいわれ、「菖蒲」が「尚武・勝負」に通じていたのです。菖蒲の葉や根は、昔から邪気を避け、悪魔を払うといい伝えられております。
日本では奈良時代に宮中で行なわれたのが最初で、端午の午と数字の五が同じ発音から毎月5日を指し、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったといわれてます。
この日に菖蒲やヨモギなど薬草を摘み、門戸や軒にかけたり、菖蒲酒などにして飲み、邪気や疫病を払っていました。江戸時代の徳川幕府は菖蒲と尚武をかけ、重要な式日として祝うようなったそうです。五月人形のモデルは金太郎さんで、菱形の腹掛けを着け、鉞(まさかり)を担いで熊の背に乗る姿は、出世、強健、武勇を象徴する男の子の守り神でもあります。
詳しくは<2009年5月4日「今年の端午の節句と立夏は5月5日」>をご覧ください。


七夕の節句 しちせきのせっく    7月7日

1624七夕一般的には「七夕」と書いて「たなばた」と読みますが、古くは「棚機」や「棚幡」と表記していたようです。そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であったことから「たなばた」と発音するようになりました。「しちせき」とも読む場合もあります。
七夕は中国に古くから伝わる牽牛・織女星の伝説から発達した乞巧奠(きっこうでん)の行事に、日本古来の機(はた)を織る女性である棚機津女(たなばたつめ)の信仰が習合されました。
七夕の神事は、7月7日午前1時頃、いわゆる「夜明けの晩」に行うもので、祭としては7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われます。これは午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の3つが最も見頃になる時間帯だからです。
商店街などの「七夕まつり」は、一般的に観光客や買い物客を呼び込むことが目的で、特に夜間の風習や神事などはあまり行われません。現在の暦では梅雨が明けるか微妙な時季です。七夕を晴天で迎えることは少なく、湿った温かな空気が流れ込み雷雲が発生しやすくなります。
詳しくは<2011年7月5日「牽牛・織女は7月7日の夜明けの晩にデートしていた!」>をご覧ください。


重陽の節句 ちょうようのせっく   9月9日

1624重陽の節句中国ではこの日菊の香りを移した菊酒を飲んで邪気を払い長命を願うという風習がありました。それが平安時代日本に伝わり、宮中の行事から武家に、明治になって庶民に広まったのです。不老長寿の薬として栽培されていた菊の花も、日本では食用の花として重宝されていました。今でも食材として東北地方では菊料理がつくられています。
旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、春の桃、初夏の菖蒲、そして秋の菊と季節を代表する花が節句の名前に配されております。重陽の節句も中国から伝わってきました。
中国の陰陽思想では奇数が陽の数といわれ、一番大きな数字の9が重なる日を大変めでたい日とし「重陽」と呼んでいました。日本には平安時代初期に伝わり、宮中では貴族の間で「観菊の宴」を開き、菊酒を飲んだり詩歌を読むなどして、長寿を祈ったといわれています。
菊酒とは菊の花びらを浸したお酒のことで、その芳香と菊の花の高貴な気品によって邪気をはらい、寿命を延ばすと考えられていました。また、一晩菊の花を覆い、香りの移った綿で身体を拭い、邪気を祓ったという「被綿(きせわた)」は日本独自の風習です。
現在、天皇と皇室の御紋である「十六八重菊」は慣習法上の国章扱いとなっております。
詳しくは<2013年9月5日「草花に透明な露を結ぶ白露」>をご覧ください。


雑節


■雑節 ざっせつ

雑節とは、五節句・二十四節気以外の、季節の移り変わりの目安となる日の総称です。
農業に従事する人々は二十四節気(中国で作られた暦)では十分に季節の変化を読み取れないため、その補助をする為に考えられた日本独自の暦です。雑節が考え出された背景には、農家が季節の移り変わりを正確に理解できれば、農作物に多大な損害を出さずにすむという自然現象と農業の深い関係がありました。


節分 せつぶん     2月3日

1624節分季節の変わり目である「立春、立夏、立秋、立冬の前日」を節分といいます。立春から1年がはじまるという旧暦の考えからすると立春の前日は1年の最後とされ、この日、邪気を祓い、幸せを願う様々な行事が行われてきました。室町時代には節分といえば立春の前日だけをさすようになり、宮中では追儺(ついな・俗にいう鬼やらいや厄払い)という行事が行われました。そのひとつである豆打ちの名残りが豆まきとして今に伝わっているというわけです。
豆まきに大豆が使われたのは、大豆には霊的な力が宿ると信じられ、神様への供え物として使われていたからです。昔、京都鞍馬山に鬼が出たとき、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目に投げつけて退治したという話もあります。そこから魔の目(まめ)に豆を投げつけて魔を滅する(魔滅)にも通じるのです。
節分には歳の数だけ大豆を食べるという風習がありますが、他にも地方によってはいろいろな行事食があります。そのひとつに全国的に広まっている恵方巻だったり、四国方面のこんにゃくを食べる風習だったり、地方によっては昆布と梅に3個の大豆を入れた福茶を飲んだり、鬼の嫌いな鰯(いわし)をたべるところももあるようです。
詳しくは<2010年1月31日「豆まき、恵方巻、福茶で厄年を追い払う」>をご覧ください。


土用 どよう 

1624土用丑の日土用 とは、 立春(2月4日頃)、立夏(5月5日頃)、立秋(8月7日頃)、立冬(11月7日頃)の前18日間を言います。それぞれ、立春前の「冬の土用」が1月17日頃、立夏前の「春の土用」が4月17日頃、立秋前の「夏の土用」が7月20日頃、立冬前の「秋の土用」が10月20日頃から始まります。その中でも、現在は「夏の土用」の間の丑の日にうなぎを食べる「土用の丑」」が浸透してます。
土用には様々な禁忌があります。例えば土用中に土を犯すことは忌むべきこととされていたため、土いじりをしてはいけない、丑の日に大根の種をまいてはいけない、葬送は延期しなければならないなどの禁忌が設けられていました。
これら土用にまつわる禁忌が生み出された背景には「土用中は季節の変わり目であるために、農作業などの大仕事をすると体調が崩れやすい」など、先人の戒めが込められているといいます。
詳しくは<2009年7月17日「土用丑の日はやっぱり鰻でしょう」>をご覧ください。

彼岸 ひがん   

1624彼岸3月20日は「春分」、9月22日は「秋分」です。
昼と夜の時間がほぼ同じになる日と言われる春分(秋分)。この日を中日に前後3日、計7日間が彼岸といわれます。春分以降は昼の時間が長くなり、秋分以降は夜の時間が長くなるため、「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通り、過ごしやすい日々が続きます。
仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)といいます。彼岸は西に、此岸は東にあるとされ、太陽が真東から昇って真西に沈む春分と秋分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなるという考えから、お彼岸にお墓参りをして先祖を供養するようになったのだそうです。
お彼岸は他の仏教国にはない日本だけの行事でもあります。そのお彼岸は「日願」でもあり、太陽の神を信仰する神道と結びつきやすかったのかもしれません。春の種まきや秋の収穫とも結びつき、自然に対する感謝や祈りがご先祖様に感謝する大切な行事に結びついたのでしょう。
詳しくは<2013年3月20日「暑さ寒さも彼岸まで」>をご覧ください。


社日 しゃにち

1624社日社日は春と秋の年に2回あり、春分の日(3月20日頃)と秋分の日(9月22日頃)にもっとも近い戊(つちのえ)の日となります。春は「春社(はるしゃ)」、秋は「秋社(あきしゃ)」と略して呼ばれております。もともと「社日」を祝う習慣は中国から伝わったもので、この風習が土地の神様を信仰する日本の風土と合致し、全国に広まったようです。
社日の「社」には土地の守護神、土の神が含まれており、農耕民族である日本人にとって、大地の恵みをもたらす「土」との縁は、深いものがあったようです。
「社日」は、土地の神様である「産土神様」を祀る日であり、農業における大事な節目の日の「春社」では、五穀の種を供えて豊作を祈り、「秋社」では、収穫された稲の初穂を捧げお礼参りをしていたのです。最近では社日の神事行うところは少なくなってきているようですが、今でも餅を搗いたり、海辺の清い海砂で家を浄めたりなど、神様を祝う行事が様々な形で残っているところもあるようです。
ちなみに生まれた赤ちゃんの「お宮参り」などは、土地の守り神である神社へお参りするしきたりがあります。


八十八夜 はちじゅうはちや

1624茶摘み5月2日は雑節の「八十八夜」です。立春から数えて八十八日目にあたります。霜がおりることもなく安定した気候となり、この頃を苗代の籾蒔きなど農作業の目安とするようになりました。
お茶の産地では新芽を摘み取る茶摘みが始まります。お茶は奈良・平安時代、唐の国から伝わり僧侶や貴族階級の間で飲んでいました。15世紀後半から千利休らによって「侘茶(わびちゃ)」として大成、武士階級に流行。明治初期には集団茶園が作られ、次第に一般庶民もお茶を飲むようになったのです。
八十八夜は春から夏に移る節目の日で、縁起のいい日とされてきました。この日に摘み取られるお茶は、古来より不老長寿の縁起物の新茶として珍重されてきました。
八十八夜とお茶が結びついたのは、「夏も近づく八十八夜・・・♪」と茶摘みを歌った唱歌の影響があったからのようです。最盛期である八十八夜、気候条件も含めてこの時期のお茶は、うまみのもとであるテアニンなどの成分を豊富に含んだ極上茶であります。
一番茶は健康に良い飲み物として、摂取すると古くから無病息災で過ごせるという言い伝えがあります。
詳しくは<2014年4月30日「夏も近づく八十八夜」>をご覧ください。


入梅 にゅうばい

1624入梅気象上での梅雨入りは地域により、あるいは年によって相違しますが、大よその時期を知らせる必要があるところから、6月11日頃を雑節の入梅として暦上に設けられています。夏至のほぼ10日前頃に当たります。
古くは芒種の後の最初の壬(みずのえ)の日とされていました。壬の日が選ばれたのは陰陽五行説で、壬は水の気の強い性格とされたからなんだそうです。
暦上の入梅は立春から数えて135日目に当ります。梅の実が熟する頃に雨季に入ることから入梅といわれるようになり、湿度が高く黴(かび)が生えやすいため黴雨(ばいう)が転じて梅雨になったともいわれています。
昔は農家にとって梅雨入りの時期を知ることは田植えの日取りを決めるのに重要だったのです。
詳しくは<2012年6月10日「6月は憧れのジューンブライドです」>をご覧ください。


半夏生 はんげしょう

1624半夏生半夏生は雑節ですが、七十二候の第30候では「半夏生づ」と呼ばれています。半夏生づは夏至から数えて11日目の7月2日頃から7月6日頃までの5日間をいいます。「半夏」とは水辺に生える烏柄勺(からすびしゃく)という多年草のことで、半夏生とは、それが生える時期のことをいいます。
農家ではこの日までに田植えを済ませるという習慣がありました。どんなに天候不順な年でも、この日までに田植えをしないと「半夏半作」となり、例年の半分の収穫しか上げられません。旧暦の7月では一般に梅雨も明けて、田植えも終わる頃ですが、「チュウ(夏至)ははずせ、ハンゲ(半夏生)は待つな」ということわざがある程です。そのためこの日を田植えの最終目標としていたようです。八十八夜とともに、江戸時代では農家にとって重要な雑節でした。
江戸時代以前の田植えは旧暦5月(新暦では6月頃)で、現在に比べて1~2ヶ月程遅い時期でした。そのため各地に残る御田植え祭りなどは現在の6月頃に行われております。
詳しくは<2010年7月2日「農作業終えゆっくり休める半夏生」>をご覧ください。


■国民の祝日 こくみんのしゅくじつ

祝日とは政府が定めた「日本国民の祝祭日」のことです。一方休日とは、業務・営業・授業などを休む日のことです。前者が一年の行事としてあらかじめ決められているのに対し、後者は個人が「お店を休む日」など自由に決めることができます。
1999年には休日法の改正によって、ハッピーマンデー制度が制定されました。これにより、土・日・月と休日を連続させるために、いくつかの祝日が月曜日に移行しました。
この項は書きかけ中です。もう暫くお待ちください。


■和風月名 わふうげつめい
この項は書きかけ中です。しばらくお待ちください。

テーマ:実用・役に立つ話
ジャンル:趣味・実用

日めくりカレンダー

カレンダー

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

カテゴリー

最近の記事

ブログ内検索

FC2カウンター

QRコード

QRコード

CREDIT

top